パパ・ユーア クレイジー

お風呂の栓をし忘れたり、さっき開けたばかりの引き出しを閉め忘れるほどの僕ですので、きっと大切なこともたくさん気づかないところで忘れてしまっているのだろうなあと思っていましたが、学生時代、何度も読んだこの本の存在さえ忘れてたとは思ってもいませんでした。

”パパ・ユーア クレイジー”。

ウィリアム・サローヤンの著書を伊丹十三さんが訳しています。

初めて読んだのは中学生か高校生の時。

その後20歳までにも何度か読んだ覚えがあります。

そして今回読んだのはおそらく20年ぶり。

忘れていた場面や展開もありました。

20年前は感じられなかったようなものも感じられた気もしています。

 

海辺で暮らす父と2人きりの約しい生活を始めることになった10歳の少年。

食いしん坊だったその少年が、作家である父の質素な手料理と倹約的な生活に戸惑いながらも、成長していく物語です。

物語は全部で63編の小さな断片に分けられています。

上品で静かなロードムービーのような小説です。

伊丹十三さんが、直訳的に訳することにこだわったという一風変わった訳し方も読みどころの一つです。

「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」
伊丹氏は、訳するにあたって人称代名詞を可能な限り省略しないことを自分にルールとして課したそうです。
その理由について伊丹氏はあとがきで、親としての、こどもの自我の捉え方を西洋文化と自我にまで広げて語っておられます。
(あくまで、この小説を訳するとすればの話ですが、興味のある方はあとがきもぜひ読んでみて下さい)

物語の中、海で”僕”が採取した漂着物を”僕の父”に見せる場面があります。

 

『9・世界

 僕がうちへ帰ると、僕のお父さんは仕事を横へどかしてカードテーブルの上に新聞紙を拡げ、皿やカップや受け皿やなんかをその上に並べて朝食の支度をしていた。僕は岩や貝殻や流木を彼に見せた。彼は言った。「こいつらは凄い。お前が見つけた物ひとつひとつが全部凄い。蛇口の下へ持っていって、ひとつひとつよく見てごらん。お前が書くことを学ぶ方法はこれなんだ。どんなものでも注意深く観察することなんだ」

 僕の父が朝食の支度をしている間、僕は岩と貝殻と流木を洗ってそれらをひとつひとつ注意深く眺めた。僕はそれらをぐるぐる廻して、あらゆる角度から見るようにした。僕は沢山のことを観察した。僕は押し僕が注意深く見なければ決して気がつかなかったような点に気がついた。僕は世界の中のちいさな物たちが、その見かけよりはるかに多くのものを持っているということを発見した。』

主人公の僕は拾い集めたこの漂着物のように、少しづつ言葉や父の考えを拾い集めてたくましく育っていきます。

同じように、伊丹さんがこだわった人称代名詞を可能な限り省略しない文体は、”僕”の心の動きを一字一句も漏らさないようにひとつづつ、拾い集める為の丁寧な所作のように感じられるのです。

薄っぺらで、くたびれたこの本を広げば立ち上がるこの物語の世界。

静かな父の家は、紙をめくる音も薪が暖炉で燃える音も大きく聞こえるほど静かです。

小さな夜の明かりも、朝方までふたりで走るハイウェイも美しくてどこか儚くて切ない。

”僕”の口から語られる、二人の生活。

細やかな断片的時間や小さな出来事までも、まるで宝物ように大切にひとつひとつ紡がれて、この物語はできています。

 

当時たくさんのことをこの本から学びました。

僕の父(45)と近い年齢になって、今だからこそ読んで感じられものもたくさんありました。

そして僕はまた、何度ものこの本を開くでしょう。

 

『どんなものでも、注意深く観察することなんだ』

 

写真 漂着物 2016年 大淀海岸 採取 つっかけの靴底