半分は向こう側にある

「これは何に使うのですか」とよく聞かれます。

それはうちの店で売っているような古びた鉄くずや、朽ちた木のようなオブジェ的な古物を捕まえてお客様がよくおっしゃいます。

適当に「売ってる僕もよくわからないんですよ」と答えたりしますが、最近は、「心のこしかけのようなものではないですか?」と言ってみたい衝動に駆られます。

目に見えない「気持ちの置き所」というものが自分の中には確かにあって、そういうものには特別名前はありませんが、こしかけのようだなと思うからです。

よっこらしょと気持ちが腰をおろすようなもの、っちゅうか・・・。

言ってみたいだけで言ったことがないのはなぜか?

「心の〇〇」系の言葉は口に出した途端、胡散臭く(古道具屋はいつの時代も胡散臭いと相場が決まっていますが)なってしまいそうだからです。

 

だけど、そういう心の拠り所なる装置は日本古来の設えとして、床の間や場合によっては仏壇がありました。

そこに置かれる掛け軸や四季の花、現実世界とは一線を画する間。

床の間や仏壇を持たなくなった今、拠り所を失った僕たちの心はどこによっこらしょすればいいのでしょうか。

僕はそういうものを古物や、飾るしか用途のないにオブジェクトに求めていると思うのです。

 

だから飾るしかない類の古物を買ってくださいと言っているのではありません。

そういう視点で普段の生活や、暮らしの道具を見直すだけで十分だと思うのです。

たとえば神道には、私たちが普段使っているお箸も、手前の一本は自分のもので、奥の一本は神様のいる自然界ものだという考え方があります。

揃って置いてある2本の箸が結界であり、向こう側にある神聖なる自然界の食べ物をいただいています。

そう考えてみれば、食卓に並ぶいつものがお箸がオブジェのように見えませんか?

これもやっぱり現実世界と切り離してくれる装置、思想です。

心の拠り所っていうのは、現実逃避のことかもしれませんね。

現実的なことばかりでは、息が詰まるのは今も昔も同じ。

自分のものは半分だけという発想、ちょうどいいなあと思うんです。

半分くらいでちょうどいい。

お箸だけでなく、古物も、楽しいことも、悲しいことも、辛いことも、半分だけ自分のもので残りの半分は自然界のもの、現実ではないのかもと放り投げてオッケーだと思いたい。

 

僕たちの店にある用途不明の古物やゴミ同然のガラクタも、買わないまでも半分は現実から逸脱した心のこしかけと大目に見てやってください。

そして、このこの記事の半分ほどを占めている箸のエピソードだって、安藤政信さんの「どっちつかずのものづくり」からの受け売りです。

狂ったように暑いけど、半分くらいは気楽に行きましょう。

 

写真:京都カオスの間で買った陶製歯を額装した図

 

@24iro @nijiiro7